聖徳太子とは簡単なまとめや時代背景、17条の憲法の内容や制定理由など

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聖徳太子とはどんな人?簡単にまとめると?

聖徳太子(しょうとくたいし)(574〜622)とは、日本の歴史上の人物で、飛鳥時代の政治家、皇族の人です。本名は、厩戸豊聡耳(うまやどのとよとみみ)皇子と言われています。※他にも色々な説もあります。

これまで、主に冠位十二階や17条の憲法、遣隋使などの、日本の政治に重要な役割を担う決まりを作って来たとされ、同時に複数人の話しを聞き分ける事も出来たとされています。

 

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学校の教科書や、日本銀行券(お札)にも度々登場し、日本人なら知らない人はいないとされている程の有名な人です。

ただし、最近の研究では、実は様々な決まり事は、みんなで協力してつくったのではないか?などの疑問点が出て来ており、実際には功績に対して名付けられた、『聖徳太子』と呼ばれるような働きではなかったのでは?と議論になっています。

十七条の憲法の内容や意味を分かりやすく説明すると?

17条の憲法は、今の憲法とはちょっと違い、役人が守るべき決まりごとを定めた憲法です。

 

1)和(わ)を以(も)って貴(とおと)しとなし・・・

平和を大切にしましょう

2)篤(あつ)く三宝(さんぼう)を敬(うやま)え・・・

仏様や、その教え、お坊さんを大切にしましょう

3)詔(みことのり)を承(う)けては必ず謹(つつし)め・・・

天皇からの命令には必ず従いましょう

4)群卿百寮(ぐんけいひゃくりょう)、礼をもって本(もと)とせよ・・・

天皇に仕える役人の人たちは礼節を大切にしましょう

5)餮(あじわいのむさぼり)を絶ち、欲(たからのほしみ)を棄(す)てて、明らかに訴訟(うったえ)を弁(わきま)えよ・・・

欲を棄て、賄賂などを絶ち、訴訟は正しくしましょう

6)悪を懲(こら)し善を勧(すす)むるは、古(いにしえ)の良き典(のり)なり・・・

悪を懲らしめ、善を勧めるのは、昔から良い行いです

7)人各(おのおの)任有り。掌(つかさど)ること宜(よろ)しく濫(みだ)れざるべし・・・

人には、それぞれやるべき事があります。忠実に実施し、権限を悪用してはなりません。

8)群卿百寮、早く朝(まい)りて晏(おそ)く退け・・・

天皇に仕える役人は朝早く来て、遅くなってから帰りましょう

9)信はこれ義の本(もと)なり。事毎(ことごと)に信あれ・・・

誠実さは人の道理です。何事にも誠実に。

10)忿(こころのいかり)を絶ち瞋(おもてのいかり)を棄(す)て、人の違(たが)うを怒らざれ・・・

心の怒りを鎮め、怒りの表情を棄て、人が自分と違っても怒らないように

11)功過(こうか)を明らかに察して、賞罰必ず当てよ・・・

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良い事や悪い事をはっきりさせ、見合う賞罰を与えましょう

12)国司(こくし)国造(こくぞう)、百姓(ひゃくせい)に斂(おさ)めとることなかれ・・・

国司や国造の立場の人は、一般の人々から無闇に税をとらないように

13)諸(もろもろ)の官に任ずる者同じく職掌(しょくしょう)を知れ・・・

役人たちは、他の役人がしている仕事もちゃんと把握しておきましょう

14)群臣百寮、嫉妬(しっと)あることなかれ・・・

役人は嫉妬をしないようにしましょう

15)私に背(そむ)きて公(おおやけ)に向うは、これ臣の道なり・・・

滅私奉公するのが役人です

16)民を使うに時をもってするは、古(いにしえ)の良き典(のり)なり

国民に何かをさせる時は、時期を考えましょう。昔からの良い教えです。

17)それ事(こと)は独(ひと)り断(さだ)むべからず。必ず衆とともによろしく論(あげ
つら)うべし

重要なことは1人決めずに、必ず皆で話し合いましょう


17条とは意外にも、結構なボリュームがありますね。しかし、中身はとてもシンプルにまとまっていますね。

現代にも充分通用するような、というより、かなり良い事が決まりとして書かれている気がしますね。

どうやら、17条の憲法は一般の人民向けのものではなく、役人向けのものとして制定された物のようです。

十七条の憲法制定の理由は?

基本思想は儒教および仏教の折衷調和にある。他方「君を天とし,臣を地とす」や「国に二君非ず,民に両主無し」などのように天皇中心の中央集権的国家体制の確立を意図した個条もあり,大化改新 (645) と思想のつながりをみることができる。

こういったものが必要だということは、それらが守られていなかったということを意味します。

ですので、背景には役人の腐敗などがあったのでは、と考えられます。調和と統制のために作られたという意味合いが強いのでしょうか。

時代背景や年表は?

聖徳太子(しょうとくたいし、敏達天皇3年1月1日(574年2月7日) 推古天皇30年2月22日(622年4月8日))

用明天皇の第二皇子、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女。

推古天皇のもと、蘇我馬子と協調して政治を行い、国際的緊張のなかで遣隋使を派遣するなど進んでいる中国の文化・制度を学び冠位十二階や十七条憲法を定めるなど天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図った他、仏教を取り入れ神道とともに厚く信仰し興隆につとめた。

日本の国がまとまり、きちんとした仕組みの中にまとまっていく時代に聖徳太子は活躍しました。

その仕組み作りに中心的な人物として携わり、日本の国の礎を作った人物である、と言うこともできます。

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