吉田松陰の名言、至誠や辞世の句、松下村塾の教えや塾生、観光など

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ヒーロー・吉田松陰とは

日本の武士(長州藩士)、思想家、教育者。

山鹿流兵学師範。

一般的に明治維新の精神的指導者・理論者・倒幕論者として知られる。

私塾「松下村塾」で、後の明治維新で重要な働きをする多くの若者に思想的影響を与えた。

 

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江戸時代末期に活躍した志士の一人で、明治維新の精神的指導者です。

吉田松陰がいなかったら明治時代が違ったものとなっていたでしょう。

実際にそう口にする人も多いです。

幕末から明治期において活躍した多くの人に影響を与えました。

 

言葉、名言は?

 

「志定まれば、気盛んなり。」

 

ふらふらせず一心に何かをすることが大事ということでしょう。

 

「夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、計画なき者に実行なし、実行なき者に成功なし。故に、夢なき者に成功なし。」

 

これも、今でも通じる名言ですね。

 

「かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂」

 

吉田松陰の日本のことを強く思う心から出た言葉です。

 

名言をまとめた本も

吉田松陰名言集 思えば得るあり学べば為すあり (宝島SUGOI文庫) 文庫

2014/10/4 八幡 和郎 (監修)

 

たくさんの心にささる言葉を一度に読むことができます。

 

辞世の句『親思う』の意味は?

弟子宛
「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」

家族宛
「親思ふ 心にまさる 親心 けふのおとずれ 何ときくらん」

 

この、「親思う・・」の句は、子どもが親を思う以上に親は子どもの事を思っており、こういった状況になってしまって両親はどう思っているのだろうという意味です。

死を前にして、やはり親のことを考えたのでしょう。

 

松下村塾の教えや塾生は?

松陰が塾生達の指導に当たったのは僅か2年余りにしかすぎなかったが、松陰の指導・薫陶を受けた松下村塾門下生達は尊王攘夷を掲げて京都で活動した者や、明治維新で新政府に関わる者など幕末・明治において大きな活躍を果たす。

久坂玄瑞や高杉晋作、吉田稔麿など倒幕運動の中で重要な役割を果たしながらも、それ故に明治維新を前にして道半ばで斃れた者も多いが、生き残った者は、伊藤博文、山県有朋の内閣総理大臣を筆頭に、多数の国務大臣、大学の創業者など近代日本に繋がる大きな役割を果たした。

塾生名簿は現存しないが、著名な門下生には久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、入江九一、伊藤博文、山県有朋、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、飯田俊徳、渡辺蒿蔵(天野清三郎)、松浦松洞、増野徳民、有吉熊次郎などがおり、総計で約90名余りが松陰の教えを受けたと言われている。

塾生には、幕末から明治にかけて、日本の中心にいた有名人ばかりが、かなり名を連ねています。

近代日本の礎が作られた塾と言っても過言ではありませんね。

 

塾の場所は?観光出来る?

萩市の松陰神社の境内には幕末当時の塾舎が現存する。

建物は木造瓦葺き平屋建ての小舎で、当初からあった八畳と、十畳半の部分からなっている。

十畳半は塾生が増えて手狭になったため、後から塾生の中谷正亮が設計し、松陰と塾生の共同作業で増築したものである。

 

1889年(明治22年)、境二郎が往時の塾舎の保存を提案、品川弥二郎、山田顕義らが賛同して寄付金を募り、塾舎を屋根の漆喰塗りや壁の塗り直し等の若干の補修を行ったうえで保存することとした。

1922年(大正11年)10月12日、国の史跡に指定されたが、当時の山口県の調査資料では、幕末の建物がそのまま保たれていたことが記載されている。管理団体は松陰神社である

 

萩市に当時の建物が今でも大切に手入れをされて現存しています。

見学も可能ですので、吉田松陰の軌跡を肌で感じる為には、ぜひ訪れたいものですね。

 

松陰の妹は?文、寿、千代

兄・松陰と文、楫取家との関係を振り返ると、まず楫取素彦(もとひこ)は、松陰の妹で文の姉である寿(ひさ)と最初に結婚したんです。

寿が病気で亡くなり、そのあとに久坂玄瑞(くさかげんずい)の夫人だった文と結婚することになりました。55歳のときでした。

素彦の人生の後半を支えたのは文だったんですね。

 

千代と聞いて「誰?」と思う人は多いはず。

なぜか千代は、ドラマには出てきていません。

 

しかし、松陰より2つ下の千代は松陰とも仲が良く、千代に宛てられた松陰の書簡は多く残っているようです(文に宛てられたものがほとんど残っていない中で……)。

また、千代は93歳まで生きていて、松陰の兄弟姉妹の中でも最も長生きしています。だから、一家の顛末を一番よく知る人物なんですね。

 

なぜ千代がドラマに出なかったのか?など気になることもありますが、いずれにしろ妹達も興味深い人達が多いです。

いずれ描かれることもあるかも知れませんね。

 

文は大河ドラマにも。妹役や文の旦那は?

吉田松陰の妹、文(井上真央)を主人公に繰り広げられる大河ドラマ『花燃ゆ』。同じく松陰の妹、寿を優香が演じています。

「花燃ゆ」では、井上真央が妹「文」を演じています。

 

佐久間象山とは?

江戸時代後期の松代藩士、兵学者・朱子学者・思想家。

松代三山の一人。

通称は修理(しゅり)、諱は国忠(くにただ)、のちに(ひらき)、字は子迪(してき)、後に子明(しめい)と称した。

位階は贈正四位

象山神社の祭神。

象山神社の隣が生家で、長野県の史跡に指定されている。

 

松陰が江戸で師としたのが佐久間象山です。

かなり多くの影響を受けてます。

 

至誠にして、至誠通天の意味は?

至誠にして動かざる者は 未だ之れ有らざるなり
(至誠而不動者  未之有也

意味
誠の心をもって尽くせば、動かなかった人など今まで誰もいない

 

松陰の言葉は、「考え方の根本」みたいなものが多いです。

いわゆる枝葉のテクニック的なものでなく、生きる上において本当に大事なことは何なのかということを考えさせられます。

 

著名な弟子、門下生たちの一覧と四天王

高杉晋作(たかすぎ しんさく)

1839年9月27日〜1867年5月17日(享年27歳)

経歴:
長州藩士・高杉小忠太の息子として生まれる。

13歳の時に明倫館に入学し、その流れで松下村塾に入門、松陰からの師事を受けた。

1862年に上海へと渡り、植民地化しつつある中国の現状に大きな影響を受けた。帰国後、奇兵隊を結成、尊王攘夷活動を展開していく。

1865年には、長州藩内における幕府恭順派を一掃、長州藩の実権を奪取し、藩として倒幕運動を掲げることに成功した(功山寺挙兵)。

ただ1867年、大政奉還が行われる約半年前に持病の肺結核によって亡くなった。享年27歳。

 

久坂玄瑞(くさか げんずい)

1840年1月5日〜1864年8月20日(享年25歳)

経歴:
長州藩医・久坂良迪の息子。家族全員を病で亡くし、15歳にして久坂家の当主となった。

松下村塾に入門。吉田松陰は、高杉晋作と久坂玄瑞を「村塾の双璧」と称し、その才能を高く評価していた。

その後は高杉晋作らとともに尊王攘夷活動を行った。

1863年の八月十八日の政変によって、京における長州藩の影響力が低下していく中で、失地回復を図るも失敗。薩摩・会津藩との戦いに発展(禁門の変)し、長州藩の敗北濃厚となる中で自刃した。

享年25歳。

 

吉田稔麿(よしだ としまろ)

1841年3月16日〜1864年7月8日(享年24歳)

経歴:
長州藩の足軽・吉田清内の嫡子として生誕。松下村塾で兵学を究め、吉田松陰からは高杉晋作、久坂玄瑞に並ぶ「三秀」と評価されていた。

松下村塾の同級生で、明治新政府で活躍した品川弥二郎は、「稔麿が生きていたら総理大臣になっていただろう」と吉田の明晰さを語っている。

高杉晋作が設立した奇兵隊に参加し、尊王攘夷活動を行っていく。ただ、1864年の池田屋事件にて討ち死に。

享年24歳。

 

入江九一(いりえ くいち)

1837年5月9日〜1864年8月20日(享年28歳)

経歴:
長州藩の足軽・入江嘉伝次の長男として生まれる。

松下村塾に入門し、高杉・久坂・吉田らと並ぶ「松下村塾の四天王」として吉田松陰からその才能を高く評価されていた。

吉田松陰による幕府の老中暗殺計画に加担するも、失敗に終わり、投獄される。

釈放後は高杉晋作が率いた奇兵隊に加わり、参謀として活躍した。

その後、禁門の変(1864年)にて久坂らと共闘するも敗北し、自刃した。

享年28歳。

なお、明治新政府で活躍した野村靖は実弟。

 

松下村塾生

寺島忠三郎(てらしま ちゅうざぶろう)

有吉熊次郎(ありよし くまじろう)

前原一誠(まえばら いっせい)

時山直八(ときやま なおはち)

玉木彦助(たまき ひこすけ)

増野徳民(ましの とくみん)

駒井政五郎(こまい まさごろう)

松浦松洞(まつうら しょうどう) 他

吉田松陰の元で学び、明治を、そしてその後の日本を作った人達です。

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