夏目漱石の名言、月が〜や、お札は使える?期間はいつまで?価値は?等

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「吾輩は猫である」「坊ちゃん」などで有名な明治時代の日本の文豪・夏目漱石は、教育者でもあり、俳人の正岡子規とは親友であり、門下生には芥川龍之介がいました。

ちなみに、英語が得意で英語教師にまでなったわりには東洋人である限り誰しもが悩む流暢ではない英会話が漱石にとって痛手であった。

 

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文部省の命令で行かされたロンドン留学では、会話でのコンプレックスで現地ではいじめられ、異国での孤独な生活などから神経衰弱に陥り、ストレス以上の発狂レベルまでに至ってしまったことで、漱石はロンドンの事が大嫌いになったといわれています。

 

夏目漱石の生い立ち

夏目漱石(なつめそうせき)

慶応3年(1867)2月9日、江戸牛込馬場下横町 (うしごめばばしたよこまち)(現在の東京都新宿区喜久井町)で数代前からの名主・夏目家のもとに末子(五男)として生まれる。

 

本名:夏目金之助(きんのすけ)

誕生:1867年2月9日

死没:1916年12月9日

享年:49歳

職業:小説家、評論家、英文学者

 

生後間もなく里子に出され、2歳の頃に新宿の遊女屋(塩原昌之助)の養子になる。

3歳の頃、種痘がもとでホウソウを病み、顔にアト(あばた)が残り、「一つ夏目の鬼瓦」と嘲笑される。

 

10歳で生家・夏目家に戻れたのもつかの間、父からは厄介者扱いされてしまい、家庭では疎まれ親子なのに無視される状態にも耐えて生活したといわれます。

17歳、大学予備門(のちに第一高等中学校と改称)に入学。

ここで、漱石に文学的・人間的影響を与えることとなる正岡子規(まさおかしき)と出会い、友情を深める。

真面目に授業に出て特待生だった夏目漱石に対し、授業はサボって出なかった正岡子規。
 

試験の際は、夏目漱石のノートを見て一夜漬けして何とか試験に合格したとか。。。

 

学業はほぼすべての過程で主席で優秀な人材、特に英語はズバ抜けて優れていた。

明治20年(1887)の3月に長兄・大助、また6月には次兄・夏目栄之助と死別。

明治24年(1891)には三兄の妻と死別と次々不幸に見舞われる。

明治23年(1890)23歳、東京帝国大学英文学科へ入学。

当時のJ.M.ディクソン教授は漱石の才能を見込み、「方丈記」の英訳を依頼している。

明治26年(1893)26歳、同大学同学科を卒業する。

漱石は、なんと10代の頃から様々な場所で教師を務めていた、という事には驚きです。

大学卒業後は、東京高等師範学校の英語嘱託を経て、明治28年(1895)松山の愛媛県尋常中学校に英語科教師となりました。
 

松山は友人・正岡子規の故郷でもあり、ちょうどこのころ静養のため帰郷していた子規と共に俳句に精進する。
 

子規との交流は、漱石がイギリス留学中の1902年に子規が没するまで続く。

 

27歳、不治の病「結核」を発症する。

29歳、貴族院書記官長・中根重一の長女・鏡子と見合い結婚。

33歳、イギリスのロンドンへ留学するものの、英会話・背の低さなどの東洋人だからこそのコンプレックスに悩まされる。
(1900年5月渡英~1902年12月帰国)

 

★隠居生活と変わり者?

変わり者といわれた「漱石」の名前の由来は中国の古いことわざからきているそうです。

 

「枕石漱流(ちんせきそうりゅう)」

意味は「石に枕して流れに口すすぐ」ということで、隠者の生活のことを示唆したことわざです。

中国のとある人物が、「枕石漱流」を言い間違えて、
「漱石枕流」と「枕」と「漱」の部分の順番を入れ違いに間違えて言ったそうです。

そのご当人は、訂正せずに正しいと強がったことから
「漱石枕流」の意味は、負けず嫌い、頑固者、変わり者と広く言われるようになったそうです。

この言葉「漱石枕流」を気に入り、「自分は変わり者だから」と「夏目漱石」としたそうです。

 

有名作品は?

 

1905年-38歳、『吾輩は猫である』を雑誌『ホトトギス』に発表。

1906年-40歳、朝日新聞社に入社後、

『坊っちゃん-1906年』

『草枕-1906年』

『三四郎-1908年』

『それから』

『門』

『道草』

『こころ-1914年』

『明暗-1916年』を一気に書き上げる。

作家人生はわずか10年だった。。。


(MANGA BUNGOシリーズ) ホーム社漫画文庫
「吾輩は猫である」、「坊っちゃん」


(まんがで読破) 文庫バラエティアートワークス
「明暗」、「夢十夜」

 

「先生と僕」シリーズ作品 全4巻


文豪、夏目漱石にまつわる史実を元にした4コマ漫画!

神経質、厳しそう…などのイメージが一般にもたれている夏目漱石。

多くの友人・門下生に愛されたとてもチャーミングな人間味溢れる夏目漱石先生の姿がたくさん描かれています。
ジャンル:青年マンガ出版社:KADOKAWA / メディアファクトリー掲載誌・レーベル:コミックフラッパー

 

「ニッポン人が好きな100人の天才~夏目漱石編」
https://www.youtube.com/watch?v=71QBAZ7z7kQ

夏目漱石が面白おかしく描かれていて性格を知るのにはうってつけのSP番組の一部です。

 

2017年NHK土曜ドラマ 「夏目漱石の妻」 尾野真千子・長谷川博己、竹中直人、舘ひろしほか
https://www.youtube.com/watch?v=EatzXmrUjec&t=34s

朝起きるのが苦手で家事も不得手な漱石の妻、夏目鏡子との物語で結構面白かったのでお勧めです。

 

三部作とは?

前記三部作と後期三部作の計6作品があります。

前記三部作は、「三四郎」「それから」「門」、

 

「三四郎」(1908年9 – 12月)

熊本の高等学校を卒業して上京してきた三四郎は、都会に出てきていろいろな人と知り合い、都会的な女性、美禰子に心を惹かれます。

そして自分の田舎、学問の世界、恋愛とどう向き合って成長していくのか青年・三四郎の生活を描いています。

 

「それから」(1909年6 – 10月)

資産家の次男で定職につくこともなく親のすねかじりだった長井代助は、借金に追われた大親友からの相談にのり、どうにかして助けてあげたものの裏切りを知り、かつて恋い焦がれた友人の妻・美千代を奪い一緒になれたこの先にある生活に対し一大決心をしようとする物語。
(終り方がすごく中途半端という感想がおおい作品ですね)

 

「門」(1910年3月 – 6月)

親友を裏切ってその妻と結婚した青年が窮地に追い込まれて友人らに救いを求める内容。

どの作品も主人公の設定は違いますが、青年期、恋愛、親友の妻との略奪婚、結婚後の生活と、断片的につながりが感じられる作品群となっています。

後期三部作が、

6本の短編作品を集めて一つの長編にした恋愛ものの「彼岸過迄」(1912年1月 – 4月)

夫婦仲がうまくいっていない兄弟を描いた「行人」(1912年12月 – 1913年11月)

奥さんとひっそり暮らしている先生と交流を始める「私」との友情や恋の相談をつづった「こころ」(1914年4月 – 8月)

 

名言、月が綺麗ですね等

月が綺麗ですねの構造

英語教師をしていた頃の夏目漱石が、
「I love you」を「我君を愛す」と翻訳した教え子を見て、「日本人はそんなことは言わない。月が綺麗ですねとでも訳しておけ」

なんて言ったという逸話があります。
(ただし事実関係は未確認)(いわゆる都市伝説)- – – –

「I love you」・・・は二人が向かい合って発する言葉と受け止められる。

「月が綺麗ですね」・・・はふたりとも同じ方向で、視線の先にある「月」を見ている。

「月が綺麗ですね」は相手の目を見て発するのではなく、月を見てささやく言葉。

「月が綺麗ですね」と言うと、
「そうですね」と返ってくる。

和歌では「月が綺麗ですね」と送ると、それは「会いにきて」という意味。

 

つまり、ふたりが何かの対象物を眺めながら同じく“美しさ”をともに共感でき、心が通い合えば、
あえて言葉にしなくても、それだけで意思疎通が出来ていることになる。

それを「愛」と表現したのではないでしょうか。
ふたりが向かい合い見つめるのではなく、寄り添い同じ方向を眺めるのだと・・・。

こういう解釈の下で発言したのが事実だとすると「ロマンチスト」だったんですね?!

 

※そのほかの名言を少しあげておきます。

 

「真面目とはね、君、真剣勝負の意味だよ。」

「行けるところまで行くのが人生である。・・・」

「あせってはいけません。ただ、牛のように、図々しく進んでいくのが大事です。」

 

死因は?

かなりの甘党で羊羹が大好物でした。

胃潰瘍があったので、医者をはじめ周りの門下生達からも控えるよう諭されていましたが、食べ続けていたと言われています。

躁うつ病や痔などの持病もあり、湯河原や修善寺などで療養もしています。

1910年ごろに調子がかなり悪くなって、修善寺で危篤状態になってしまいます。

大量に吐血し、生死の間を彷徨(さまよ)う危篤状態に、これが「修善寺の大患」と呼ばれる事件として名を残します。

43歳のとき、「門」の執筆中でした。

その6年後に漱石は胃潰瘍の悪化で亡くなります。

 

1915年(大正4年)48歳、自伝的要素の強い「道草」を発表した。

この作品の執筆中にも漱石の病は悪化し、胃潰瘍、痔(じ)や神経衰弱そして糖尿病におかされます。

 

そして、
1916年(大正5年)49歳、「明暗」執筆途中に胃潰瘍が再発、内出血を起こし、その短い生涯を閉じました。

夏目漱石の晩年の頃の門下生の一人には芥川龍之介がいました。
文学誌で発表した「鼻」を漱石が絶賛しています。

今風でいうと、少年期の父との確執によるPTSDやロンドン留学時のパニック症候群をはじめ糖尿病と胃潰瘍など「病気のデパート」といわれた人物としても有名です。
「明暗」を書いていた1916年12月に亡くなった為「明暗」は未完・絶筆となりました。

 

お札はいつからいつまで?

夏目漱石がお金の千円札の絵になったのは3人目で1984年から23年間現役でした。

旧千円札には、聖徳太子


→伊藤博文(1963(昭和38年)~1986(昭和61年)

→夏目漱石(1984(昭和59年)~2007(平成19年)

→野口英世(2004(平成16年)~)と採用されています。

今まで日本銀行券の肖像として選択されていない人物で、学校の教科書にも登場するなど、一般に良く知られており知名度の高い文化人の中から採用するんだそうです。

上に挙げたお顔の千円札は、現在発行されていない昔のお金・旧札でも、現在も使えます!

 

お札は使える?価値は?

日本で千円札(千円券)が発行されたのは昭和25年(1950年)

ネット等で検索してみたところ、古銭買取業者さんではどの「旧千円札」については買取そのものを受け付けてくれないというところばかりだそうです。

 

理由としては、

・希少価値がない(市場にたくさん出回っている)

・どの旧札でも現在有効なお札である

つまりどのお顔の千円札も現在はすべて有効なのです!

 

しかし、旧千円札に限らずお札一般に共通するプレミアがつくものがあります。

・連続した番号(連番)
(ゾロ目、AA-AやA-Aなど)

・印刷ミスがある
といった特徴があるものは買い取ってくれるケースがあるそうですが、滅多に無いそうです。

残念ながら額面の何倍もの値段がつくということは考えない方がよいようです。

ヤフオクにも1500~9000円で出品されてますが落札してはいけないですよ!!!・・・ね?・・・

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新宿区立漱石山房記念館 が 2017年9月24日にオープンしました。
 (〒162-0043 新宿区早稲田南町7)

元々整備されていた漱石公園(開園日 昭和51年3月31日)の敷地に記念館が2017年に増設されました。

興味のある方は、是非訪れてみては!!

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