徳川家康の性格やエピソードは?築山殿の子供や母親は?天ぷらや四天王など

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戦国の世を終わらせ天下人となった徳川家康には2人の正室と20人以上の側室そして16人の子供がいました。

幼い頃から今川家の人質として過ごした家康の性格や正室の瀬名姫とのことについて調べてみました。

戦国時代から安土桃山時代を生きた武将・戦国大名。

徳川 家康(とくがわ いえやす:德川家康)

1542年~1616年:73歳没

父は当時17歳だった松平広忠、母は水野忠政の娘・於大(当時15歳/伝通院)。

幼名・竹千代(たけちよ)

別名・松平 元康(まつだいら もとやす)
織田信長の戦国時代、豊臣秀吉の安土桃山時代を経て次の江戸時代、260年も続いた江戸幕府を築いた初代征夷大将軍。

 

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徳川家康の正室や側室は?

幼少の頃から今川義元の下で人質として過ごす中、瀬名姫との結婚を始め、戦争の無い新しい時代を築き上げていきます。

1560年・18歳の頃、桶狭間の戦いで今川義元の討死を期に独立し、織田信長と同盟を結びます。

そしてどんどん勢力を拡大し織田信長の死後、敵だった旧武田家臣を仲間に取り入れたり、後世には有能な武将・井伊直政に戦略部門を任せていました。


(家康家系図https://nukadajinjya.e-naka.jp/tokugawake-keizu.html)

 

徳川家康の正室(妻)は、15歳の時に結婚した瀬名姫(関口義広の娘)と、
瀬名姫が亡くなった後の7年後に秀吉からの政略結婚で押し付けられた秀吉の異父妹にあたる朝日姫の2人だけです。

朝日姫が死去した後には正室はいません。

側室は70年の人生で約20人以上いたとされ、男子11人・女子5人が生まれております。

【正室】家康の最初の正室
瀬名姫(せな:築山殿→法名:築山御前/生年不詳~1579年)

弘治3年(1557年)正月、今川義元の姪で、今川家の人質状態のまま家康は結婚しました。

そんな状態だったからか、または性格が合わなかったのか、実は年の差があったからなのか、結婚当初から仲良し夫婦とはいえなかったようですが、それでも長男・信康が生まれたので、そこそこの意思疎通は出来た仲だったと思われます。

<家康と同年齢とする説。2歳年上説、1廻り歳上説あり>

残念ながら、信長からの疑いによって築山殿は信康ともに処分される運命です。

 

【継室】※正室が亡くなった後に正室になった妻・後妻のこと。

朝日姫(あさひ:駿河御前→法名:南明院/1543年~1590年)

天正十四年(1586年)4月、夫・佐治日向守がいる既婚者なのに、無理やり離婚させられて家康の継室になった(夫の死後に結婚した説もある)、朝日姫は、婚姻からわずか2年後、「母のお見舞いに行って来ます」といって京都の聚楽第に行ったまま、それ以降、徳川へは戻らなかった。

朝日姫自身が病弱だったそうで、病気だったのかは定かではありませんが別居から2年後(結婚して4年)に亡くなっています。

家康との子供はいません。<結婚時:家康45歳、朝日姫44歳>

 

【側室】
於万の方(おまん:長勝院、小督局/1547年~1620年)

決して無能ではないのに冷遇された家康の次男、結城秀康(1574年~1607年)の母親です。

当初正室・瀬名姫の身の回りの世話役でした。
家康の目に留まったことでお手つきになりました。

家康は正室・瀬名姫に遠慮したのか、秀康を家来の家に預けています。

なので次男とはいえ跡継ぎにしませんでした。

秀康がお腹にいた頃「築山殿の嫉妬に遭い、服を剥ぎ取られた」という逸話があり、築山殿は色々と悪役にされています。

<家康32歳頃、於万27歳>

 

お愛の方(おあい:西郷局→法名:宝台院/1552年~1689年)
二代将軍/三男・秀忠(1579年~1632年)と四男・松平忠吉の母親です。

一度結婚していたものの、夫に先立たれて未亡人となり、家康に気に入られて側室になりました。

美人で、また温和誠実な人柄であり、家康の信頼厚く、周囲の家臣や侍女達にも好かれていたと伝わります。

28歳で死去。

<家康37歳頃、お愛26歳>

※ほかに記録上確認出来ているだけでも20名程いますね。以下抜粋します。

 

そのほかの側室

・下山殿(秋山虎康娘/1591年没):天正11年(1583年)に家康の五男・万千代(武田信吉)を出産する。

・茶阿局(法名:朝覚院/1621年没):遠江国の鋳物師の後妻となり娘(於八)がいた。

夫が代官に殺されたことを家康に訴え出た時に見初められて側室になりました。

天正20年(1592年)に辰千代(後の松平忠輝)、文禄3年(1594年)に松千代を出産する[6歳で早世]。

・須和(阿茶局/1637年没):戦場には幾度となく家康に帯同しています。

19歳で神尾忠重に嫁ぎ、長男・神尾猪之助(久光)を出産、23歳(1577年)で夫と死別。

未亡人の1579年(25歳)で徳川家康(38歳)の側室となった。

家康との実子はいないが、次期将軍・徳川秀忠とその弟・松平忠吉を養育。

 

※また家康50歳を過ぎてからの側室となった女性の年齢は、かなり若かったそうです。

・お梶の方(英勝院)は、なんと13歳で側室になり家康からは最大の寵愛を受けた人で有名だそうです。家康最後の子である五女・市姫を30歳で出産しますが4歳で早世。

・お万の方(養珠院)は16歳ごろに側室になっています。

末っ子である10男・頼宣は1602年に、11男・頼房は1603年(慶長8年/家康61歳頃)に出産。

  • 家康の最後の側室と言える存在かは不明ですが、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての女性に、小野 お通(おの の おつう、生没年不詳)がいます。
    お通は、和歌も書も優れた才女として、豊臣秀吉、北政所、徳川家康など、当時の権力者たちの寵愛・庇護を受けていたとされています。
    1614年11月没?。享年、50歳?。京都の東福寺にお墓があります。

 

築山殿(瀬名姫)とは?


瀬名姫(せなひめ:築山殿/つきやまどの、生年不詳~天正7年(1579年))

徳川家康の正室。

1557年、お互い幼い時に家康の最初のお嫁さんになります。

彼女は幼名も不明で、「阿鶴」や「鶴姫」と呼ばれていたとされます。

後に法名で、築山殿、築山御前(つきやまごぜん/浜松市)、または駿河御前(するがごぜん/岡崎市)といわれる。

女性であったために生年も享年も本名も不明で、当時の肖像画なども無いのに「肌の白い超絶美人」だったと伝わっています。

1579年、瀬名姫(築山殿)は家康の命令によって殺害されます。

その理由は、敵だった武田家との内通説や家康と信康の親子間の対立など諸説あり明確な原因は不明のままです。

また、減敬(げんきょう)という医師と密通していたという説もあったり、色々な小説やドラマで様々な描き方をされています。

一般的に彼女のイメージは「悪女」とされ、なぜかヒール扱いされることがほとんどです。

 

瀬名姫の子供や母親は?

2人の子供について
弘治3年(1557年)正月、今川家の人質として駿府にいた松平元信(竹千代)と結婚。

この時、二人とも年齢は16歳だと推定されてます。
 

瀬名姫の方が8歳ほど年上だったとも言われています。

永禄2年(1559年)に長男・松平信康を、翌1560年に長女・亀姫を出産します。

永禄10年(1567年)、息子の信康と織田信長の長女・徳姫がわずか9歳同士での結婚。

元亀元年(1570年)に信康が岡崎城に移された際に、生母として一緒に岡崎城に入ります。

 

母親、佐名(さな)について
父は関口親永、母(佐名)は今川義元の伯母か妹ともいわれ、もし妹ならば築山殿は義元の姪に当たる。


(佐名・瀬名姫関係図https://www.junk-word.com/taiga-drama/naotora/003384.html)

佐名に関しては『井伊家の年譜』や『系図纂要』『井家粗覧』などの家系図をみると井伊直平の孫娘になっていて、先に今川義元の側室に入り、後に義元の妹として関口親永に嫁いだとなってます。

そうすると、井伊直盛とはいとこ、井伊直虎は従姪になり親戚であったことになります。

 

家康について(1542年~1616年:)
のちに対決することになる武田信玄(1521年~1573年:51歳没)とは20才差がありました。

北条氏康、上杉謙信らからみると親子もの年齢差で40才前後あります。

織田信長(1543年~1582年:47歳没)や豊臣秀吉(1537年~1598年:61歳没)からみると兄弟差(同年代)となります。


(戦国武将相関図http://www.koya.org/koyasan-tips/tips3.html)

 

死因は天ぷら?真田幸村が暗殺?

死因は大好物だった天ぷらを食べて、いわゆる食中毒による病死だったという説があります。

なお、この天ぷらの死を遂げた人物が実は影武者だった・・・という説もあるようです。

もう一つの説として、「サナダ虫」によるものがあります。

鷹狩りをしている最中に、激しい腹痛を覚えた徳川家康は、診察をした主治医に対して「自分は昔からサナダ虫が腹の中にいる」ことを申告したのだとか。

サナダ虫がいるというのは徳川家康の思い込みであり、本当は胃がんで亡くなったのだろうというのが、今のところの定説。

 

なお次に挙げる暗殺説も根強く残っているのも事実です。

①後藤又兵衛の槍説
家康は、大坂夏の陣で茶臼山の激戦に敗れてカゴで逃げる途中、カゴの外から後藤又兵衛の槍に突かれた。カゴを開けるまで家康の死は誰も知らなかったと伝えています。

そこで影武者として小笠原秀政が成りすましていたという説がうまれました。

 

②真田幸村説
大坂夏の陣では真田幸村が徳川家康の本陣に突撃をして 徳川家康は自刃する手前まで追い込まれて討ち取られたという説があります。(鉄砲隊による銃撃死とされています)

 

家臣団や四天王とは?

徳川家康の生涯を安泰に導くためには、支える周りの人、信頼できる仲間が必要です。

そのためには、多くの家臣たちによる力添えがあったことはいうまでもないでしょう。

家康直属の部隊である「旗本衆」。

家康を護衛する「馬廻衆」と、行政及び軍事の最高責任者として、家老の石川数正と酒井忠次のふたりがリーダーとなって以下の体制を作りました。

*徳川四天王
関ヶ原の戦いまで、家康の数々のいくさで活躍した家臣を徳川三傑として、本多忠勝、榊原康政、井伊直政の3名。

そして家老の酒井忠次を加え、徳川四天王と呼ばれる。

 

旗本:大久保彦左衛門
二代将軍:徳川秀忠
外様大名:山内一豊、黒田長政、伊達政宗、藤堂高虎

関ヶ原の戦いが終わった後の体制を次の人たちで固めていました。

本多正信(関東総奉行)、板倉勝重(京都所司代)、南光坊天海(僧侶)、金地院 崇伝(僧侶)、林羅山(儒学者)。

後の江戸の町づくりでは、本多正信をはじめ、青山忠成・内藤清成・板倉勝重らが町奉行として進められていきます。

 

徳川家康の性格は?

①慎重で我慢強い性格
徳川家康で有名なのは「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」と例えられたことです。

鳴くまで待つ気長さと根性・我慢強い精神があったようです。

 

②約束事を守る律義で義理堅い性格
徳川家康は、織田信長も豊臣秀吉も裏切ってはいません。家康は豊臣家を滅亡させる意思はなかったといわれています。

今川義元に至っては徳川慶喜の時代まで共に今川も家臣として付き合いが続きました。

 

③健康オタク
徳川家康の健康に対する関心・興味は人並み以上で、家康自ら漢方を調合し服用していました。

④戦略家
5歳または7歳の頃からすでに織田家に捕まっていた竹千代時代は、今川家から松平家への支援を得るために、駿府に人質として差し出されてからずっと主人・今川義元に預けられて成人していきます。

幼少期から家康は母親や家族の愛情をほとんど知らずに育ったことで、感情に流されることなく冷静に淡々と合理的に物事を対処していったとされています。

また側室には出産経験者の元人妻を選んでいたといわれ、乳幼児期の死亡率が非常に高かった戦国時代にいるからこそ、一人でも多くの男子を授かり、お家断絶が無いように子孫繁栄を考えていたともいえます。

家康は正室・側室に、男子11人・女子5人をもうけています。

特筆すべきは、この時代の中、幼少期で命を失ったのは男子2人(松千代、仙千代)と女子2人(松姫、市姫)だけでした。

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「薄情モノ」と言われ、今川家から織田家へ、そうかと思うと豊臣秀吉側に従ったりとボスを次から次へと変えて世渡り上手な面が「裏切りモノ」や「ズル賢い」性格で「タヌキおやじ」と呼ばれる理由かもしれませんね!

1585年から続いた豊臣秀吉の時代を、1600年の関ケ原の戦いを経て、秀吉亡き後に天下を取りました。

1603年、征夷大将軍となり、江戸に幕府を開きます。

そして13年間で江戸時代の礎を築き上げてきました。

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