坂本龍馬とは?名言は?妻はおりょう?記念館や子孫、身長や体重は?

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黒船を見た男・坂本龍馬—、江戸時代末期の土佐藩郷士。倒幕から明治維新に変わる激動の時代に多大な影響を与えたとされる人物に迫ってまいりましょう。

諸外国(主にアメリカ)からの要求を拒絶する力が無く、諸藩をまとめる力も弱くなった江戸時代末期の徳川幕府体制ではもはや日本国を守れないと考え、幕府を倒し天皇の下に統一された国家造りが必要だと考える人たちがいました。
坂本龍馬は江戸幕府を倒すキッカケを作ったそんな考えのひとりであった人です。
龍馬は「日本国内で戦争をしてはいけない」という考えの持ち主でした。

 

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1848年のアメリカはメキシコとの戦争後のゴールドラッシュ時代、フランスでは1852年フランス革命後のナポレオンの時代です。

◆坂本龍馬とは

坂本龍馬(1836年~1867年)
天保6(1836)年11月15日、高知城に近い本町に生まれた。4人の兄姉の末っ子です。商家から分家した下級武士の家柄で父は八平(はちへい)、母は幸(こう)です。

小さい頃の龍馬は、弱虫で泣き虫だったと言われており、三女である3歳上の姉・乙女は、いつも龍馬を心配していたようです。

坂本龍馬は、学校ではいじめられっ子で、学校を辞めるほど…
そんな弱虫龍馬を心配する姉の乙女は、強くなってほしい一心で、龍馬が学校を辞めてからは学問や武芸を教えたといわれています。

12歳の頃に母が亡くなり、龍馬は2番目の母・伊与から教育を受けます。
龍馬と乙女は、伊与の最初の嫁ぎ先であった川島家へも出入りして「ヨーロッパ」というあだ名を持つ川島猪三郎から“世界=異国”の話を聞いていたとされています。
14歳で剣術を習い始め、19歳で剣術修行に江戸へ出ています。
嘉永6(1853)年3月江戸三大道場の一つである北辰一刀流の道場へ入門。

1853年6月、龍馬は沿岸警備に動員されて、浦賀沖でペリー率いる黒船4隻を目の当たりにしました。、

文久元(1861)年、27歳の龍馬は親戚の武市瑞山率いる「土佐勤王党」に加盟。
この年の秋、武市氏の密書を持って山口県萩の久坂玄瑞を訪ねます。
久坂玄瑞からは、
「大名も公卿も頼りにならない、これからは草莽(そうもう/藩士に属さない民間人、学者,神官,農民など)の人々が立ち上がる時代にならなければいけない」
と教えられ、翌1862年春先には自ら土佐藩を脱藩。

この年(28歳頃/秋口)江戸で、幕府の軍艦奉行並である勝海舟の弟子となります。
勝海舟は幕府から大坂湾での見廻り役を命じられ、神戸に海軍操練所を建設。
龍馬も神戸へ同行し、海軍操練所に同時開設した勝の私塾で海軍の修行に励みます。

元治元(1864)年頃には勝海舟の使者として西郷隆盛と会っているようです。

1864年5月(7月8日)、京都で池田屋事件。
池田屋に集まる過激な尊王攘夷(そんのうじょうい)の志士たちが、新選組の近藤勇らによって襲撃・一掃される。

<度々テドラマや映画などで放映される、メインシーンが階段落ちの派手なアクションで知られる「池田屋事件」。
ただし池田屋事件が起きた頃、龍馬は勝海舟と一緒に海軍操練所の仕事をしていたので京都にはいませんでした。>

1864年7月(8月18日)には「禁門の変」が起こり、薩摩藩と会津藩に負けた長州藩側が参加していたことが幕府の怒りを買い、勝海舟は江戸へ呼び戻され、操練所も勝塾も閉鎖された。

行き場を失う脱藩した龍馬や浪人たちは、1865年薩摩藩のもと長崎で海運業、海軍、航海術の修行機関などの顔を併せ持つ亀山社中という商社を作りました。

1866年(慶応2)1月21日、龍馬はこの亀山社中の組織を利用し、当時非常に仲が悪かった薩摩藩と長州藩を結ばせ「薩長同盟」が誕生します。

※ 幕府への対抗勢力であるこの薩長同盟の首謀者として
龍馬は危険人物対象とされ狙われる運命に・・・!

1864年頃には後の妻・お龍と出会います。

1866年薩長同盟成立の2日後、京都伏見の寺田屋に泊まっていた龍馬は、伏見奉行所の役人に襲撃される。
この時に寺田屋で働いていたおりょう(龍)の機転と、ボディーガードでもあった長府藩士の助けを借りて、薩摩藩邸に逃げ込み、一命を取り止め難を逃れます。

1867年(慶応3)1月、薩長同盟に遅れを取ったことを悔やんだ土佐藩は、長崎で坂本龍馬を引き戻します。
倒幕を考えている龍馬は土佐藩に復帰し、亀山社中は「海援隊」と改名、龍馬は海援隊隊長に就任。

1867年6月、龍馬は「大政奉還」を盛り込んだ8つの策「船中八策」を提案。
前・土佐藩主、山内豊重(容堂)にこの「船中八策」を進言し、容堂から15代将軍徳川慶喜に大政奉還を建白。
これを慶喜が受け入れ、1867年10月14日に政権を幕府から朝廷に奉還し新政府を立ち上げることになりました。

1867年11月15日、坂本龍馬33歳の誕生日、京都の近江屋(おうみや)で暗殺されてしまいます。
暗殺の実行犯は京都の治安維持組織と言われた見廻組み説が有力ですが、主犯格は幕府、薩摩藩、土佐藩、紀州藩など諸説あり未だに解明できていません。
(満にして31歳の生涯でした。)

 

◆名言は?

※「日本の夜明けぜよ」は言ってません!!!

  • 「万事、見にゃわからん。」
  • 「日本を今一度せんたくいたし申候」
    (「江戸幕府をたおして政治を変え、新しい国をつくろう」という龍馬のモットーである大政奉還につながる言葉かと推察します。)
  • 「世の人は われをなにとも ゆはゞいへ わがなすことは われのみずしる」
    (世の人は我を何とも言わば言え我が成す事は我のみぞ知る)
  • 「何の志も無きところに、ぐずぐずして日を送るは、実に大馬鹿者なり」
  • 「人の世に道は一つということはない。道は百も千も万もある。」
  • 「金よりも大事なものに評判というものがある。
    世間で大仕事をなすのにこれほど大事なものはない。
    金なんぞは、評判のあるところに自然と集まってくるさ。」

 

<ちなみに、良くご存じのこのことば
特に坂本龍馬の名言として有名な「日本の夜明けぜよ」ですが、実はこれは坂本龍馬の言葉ではないのですね。
元々は幕末が舞台の作品で、主人公は架空の英雄「鞍馬天狗」という時代劇のセリフなのです。(引用元:http://r-ijin.com/ryoma-meigen/)

 

<ちなみに、坂本龍馬の「~ぜよ」という語尾は、今では高知の人でもほとんど使っていないようです。
若い世代はもちろん、中高年世代でもほぼ使わないそうです。
ただ、高齢者が「それは~ぜよ」と優しい口調で言う場面は今でもあります。
(引用元:http://alone77.blog.so-net.ne.jp/2016-07-22-1)>

 

◆妻は、おりょう?

楢崎 龍(ならさき りょう、天保12年(1841年)6月6日~明治39年(1906年)1月15日)
江戸時代末期(幕末)から明治時代まで生きた龍馬が愛したただ一人の女性。
名は一般的に<お龍(おりょう)>と呼ばれて有名です。

お龍は裕福な家庭で育ち、生け花、香道、茶の湯などを嗜みましたが、炊事は苦手だったそうです。
ところが中川宮の侍医であった父が死んで困窮した文久2年(1862年)頃、
母が悪者に騙されて、妹が舞妓や、女郎に売られると知ったお龍は、着物を売って金をつくり、
男2人を相手に
「殺せ、殺せ、殺されにはるばる大坂に来たんだ。これは面白い殺せ」
などと啖呵を切って妹を取り返した武勇伝がある勇敢な女性の一面も。。。(この時おりょう21歳)

そんな折の1864年にに坂本龍馬(29歳)と出会い妻となります。
薩長同盟成立直後の寺田屋事件では彼女の機転により龍馬は危機を脱しました。
両手に深手を負った龍馬は、薩摩藩邸でお龍の看護を受けていたことをきっかけに、
その後お龍と結婚し、西郷隆盛や小松帯刀の勧めで、
龍馬の負傷療養のため鹿児島周辺の温泉を二人で巡ったことが有名で、そしてこれが「日本初の新婚旅行」とされています。

龍馬暗殺後、お龍は各地を転々とし大道商人・西村松兵衛と再婚して西村ツルと名乗っていました。

 

◆坂本龍馬記念館もある?

出身地・高知県:
高知市浦戸城山830番地
【高知県立坂本龍馬記念館】
大海に乗り出す船をイメージしてデザインされた素敵な記念館です。

 

北海道:
北海道函館市末広町8番6号
【北海道坂本龍馬記念館】

龍馬には蝦夷開拓の意志を持っていましたが行くことも叶わないまま、暗殺によって生涯を閉じてしまいました。
近代日本の礎を築き、北海道開拓を目指した坂本龍馬の生き方や精神、そして龍馬が生きた幕末・維新の時代背景などと共に、
坂本龍馬の意志を継いで北海道に渡った子孫がいたことから北海道に記念館が建設されたようです。

 

京都:
龍馬・終焉の地京都はゆかりの場所が多々あります。
・祇園四条駅「霊山歴史館」激動の時代、幕末・明治維新がメインテーマのミュージアム。
(向かいの京都霊山護国神社には龍馬ら志士386名の墓があり、幕末ファンの聖地)
・京都河原町「坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地」(近江屋跡)の碑。
・中書島駅(京阪宇治線)伏見の元船宿「寺田屋」

 

◆子孫は?

坂本龍馬と妻のお龍の間には子供がいませんでした。
しかしながら坂本家の子孫として、龍馬のきょうだいからは子孫繁栄、今日に至りご健在とのこと。
龍馬直系の子孫は居なくても龍馬の家督は姉・千鶴の子で龍馬の甥の坂本直が受け継いでいらっします。
「直道」とおっしゃるお名前になっているようではありますが、
現在、坂本龍馬の兄から続く代が、坂本家当主を名乗り続けているようで9代目のようです。

なお新説として、最近は「明智光秀の子孫ではないか」と言われることもあるようです。
坂本龍馬の生家である坂本家は、明智光秀の女婿・明智秀満の妾腹の子である太郎五郎の末裔だと言われています。
龍馬の生家では古来より、「坂本城を守っていたのは、明智左馬助の末裔」だという伝承も伝わっているとのことです。

 

◆身長体重は?

坂本龍馬の姉・乙女は、身長175cm、体重111kg
(身長は5尺8寸。現在でいえば約174㎝、112kg)
女性の平均身長が143~146㎝から考えれば、かなりの大柄な家系だったようです。

龍馬は残されていた紋服からの推定:身長173cm、体重80kg
以下3件の噂が残されています
・5尺7寸=173cm
・5尺8寸=176cm
・5尺9寸=179cm
当時の男性の平均身長は155~158cmということです。

最新の説では身長169㎝、体重は62㎏だったという研究結果を発表し話題になっております。

ちなみに、
坂本龍馬の残っている紋服のサイズは
(着丈=149cm 肩巾=32cm 袖丈=50cm 袖巾=33,5cm 裄丈=65cm 前巾=26cm後巾=30,5cm)
という資料から推測されており、以上のことからも所説飛び交っております。

いずれにしても、当時の人々よりは大柄であったことは間違いないようですね!

 

ちなみに・・・1836年生まれの要人には次の方々がいらっしゃいました!
榎本武明、松平容保、五代友厚など、様々な方面から明治維新と関わった人物です。
翌1837年には板垣退助と最後の将軍・徳川慶喜が生れています。
新鮮組のメンバーもついでに、、、
1844年生まれは、沖田総司・斎藤一・藤堂平助。
近藤勇は1834年、土方歳三は1835年となっています(余談でした)

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