ヘレンケラーの有名な名言は?来日の場所は?三重苦、ウォーターなど

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三重苦、奇跡の人などで知られる世界の偉人、ヘレン・ケラーさんはどんな人物だったのか調べてみました。

見えない、聞こえない、話せない、、、三重苦の偉人「奇跡の人」とは。。。

ヘレン・ケラーとは?

ヘレン・ケラー(ヘレン・アダムス・ケラー)
(Miss Helen Adams Keller, 1880~1968)
1880年(明治13年)6月27日米国南部・アラバマ州出身。

アメリカでの教育家・社会福祉事業家として、福祉・教育関連の発展に尽力したと言われている人です。

わずか1歳半の時に高熱に掛かったことが原因で、聴力・視力・発声の全てを失ったいわば「三重苦」となってしまいます。
両親からは、何も伝わらないのではと勘違いしていたためか、あまりしつけられずに甘やかされてわがまま放題に育てられていました。
7歳になり、サリバン先生という家庭教師に巡り会います。
サリバン先生自身も、小さい頃から弱視であったため、自分の経験を活かしてヘレンには、体当たりで厳しくしつけ、「指文字」や「言葉」を教えようと全力で戦います。
かんしゃく持ちでわがままで、行動的にぶつかり合うヘレンを、見放さず根気よく、熱心に繰り返し指導をして、ヘレンはやがて「物には名前というものが存在する」ことを理解し始めます。
ヘレン自身が変わり、一生懸命勉強をするようになりました。
その後、高校にも通い卒業しました。

 

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サリバン先生同席のもと、点訳・指文字通訳などで助けてもらいながらも、無事にハーバード大学女子部を卒業するまでに成長します。
1904年、ラドクリフ女子大学を卒業、文学士の称号を得る。
1906年、マサチューセッツ州盲人委員会の委員となる。
1909年、社会党に入党。

そして、ヘレン自らも重い障害を抱えていたにもかかわらず、日本をはじめとする世界各国を精力的に訪れていき、世界中の身体障害者の教育・福祉のために一生を尽くした人です。

有名な名言は?

主な著作物

The Story of My Life/1903年=『わたしの生涯』(1966年、岩橋武夫訳)
The Story of My Life,Midstream/1929年=『奇跡の人 ヘレン・ケラー自伝』(2004年、小倉慶郎訳)
My religion/1927年=『光の中へ』(1992年、鳥田恵訳)

名言で検索すると、良く出てくるものから抜粋です。

「はじめはとても難しいことも、続けていけば簡単になります。」
「障害は不便です。 しかし不幸ではありません。」
「この世で一番哀れな人は、目は見えていても未来への夢が見えていない人」
「自分の欠点を直視し認めることです。 ただし欠点に振り回されてはいけません」
「うつむいてはいけない。いつも頭を高くあげていなさい。世の中を真っ正面から見つめなさい」
「自分はこの程度の人間だと思った瞬間、それ以上の人間になることが 出来なくなります。」

なかなか鋭い感覚、感性を持った方です。さすがですね。

本や映画のあらすじは?

有名な「奇跡の人」 (1962年:原題THE MIRACLE WORKER )

生後19ケ月で、熱病により目が見えず、耳も聞こえず、言葉も喋れなくなってしまったヘレン。
両親の献身的な行動にも関わらず、ヘレンを受け容れてくれる学校はなかった。
そんな時、自身も盲目を克服した女教師アニー・サリヴァンが一家の前に現れる。
サリヴァンは、文明から隔絶してしまったかのような7歳の少女ヘレンに、彼女を取り巻く世界を認識させようと必死に努力を重ねていく…。

実はこれ、サリバン先生が書いた物語なんですね。
指文字を一生懸命教えていく、行儀作法を教えていく、映画などでは、体当たりの勝負をしている場面が多いです。

物や言葉には名前があり意味がある・・・
有名な場面、井戸水から流れる水に対し「ウォーター」と言葉を発した、そして、それが「水」、いま手に受けている物体が「水」だと理解する。
という感動的な一場面のエピソードはこれらの物語を感動的に表現するために誇張した創作なのだそうです。

あまりにもヘレンに対する接し方ややり方が激しいサリバン先生に対して、ヘレンの父親とサリバン先生とには教育方針に対する考え方の対立もありました。
「あなたはこの子のことを好きなのか?」
サリバン先生は、「甘やかすことが、すなわち愛だとは思わない」
「可哀想だと思うことの方が、物事を教えることよりも楽でしょうね。」と反論するなど、超教育熱心な熱血先生です。
ヘレン・ケラーとサリバン先生との二人のお互いの成長の記録物語でもあります。
ふたりのやり取りには迫力がありました。

来日したことがある?場所は?

ヘレン・ケラーは生涯で3回日本に来ています。
日光に来たことは有名ですね。

初来日が昭和12年(1937年)、4月。
日本とアメリカが中国大陸の利権をめぐって対立していた当時、日米の親善を兼ねた政治的な意味合いを持って来日されたそうです。
横浜港に到着し新宿御苑で観桜会、大阪、埼玉をはじめとした国内を周り、
7月5日には日光金谷ホテルを宿泊しているのです。
8月10日に横浜港からアメリカへ帰国しました。
ヘレン・ケラーこの時既に57歳でした。

1937年(昭和12年)7月7日、日中戦争
1941年12月8日、真珠湾攻撃
1945年、終戦。

2度目の来日は昭和23年(1948年)、8月から広島、長崎を訪れながら2か月間の滞在をしていました。

3度目は昭和30年(1955年)、ヘレン・ケラーは75歳です。

三重苦とは?

視力・聴力・言語(発声)の全てができなくなる「三重苦」。

病気のため、見る・聞く・話すことが出来なくなったといわれていたヘレン・ケラー。
しかし、見えないながらもサインが残されています。
日光金谷ホテルに飾られているそうで、テレビでの情報番組「なんでも鑑定団」でも取り上げられた過去があるようです。

聴力は戻せなかったかもしれませんね。

言語、話せない部分については、克服していることが「奇跡の人」の映画などでもなんとなくわかります。
人間というものは一応、発声能力は失わないのかもしれません。
発声する力や手段が得られ無いだけなのだと考えられます。

ヒトはなんらかの形で、必ず、自分を表現できる生物なのでしょうね。

ウォーターとは?

「Water」
井戸水を手に流しかけて「ウォーター!」と言う名場面。

「水」に対して、わたしが今受けているもの、触っているものは「水だ!」と、
物と名前、その言葉を理解して発声した、というエピソードはこの「奇跡の人」における戯曲のなかのいわゆる創作部分なのだそうです。

映画や、アニメ、伝奇小説でも有名な感動する場面として取り入れられています。

実際は、視覚と聴覚を失うより以前にヘレン自身は「Water」という言葉を覚えていた、ともいわれています。(1歳半頃?)
でもその直後、言葉の理解をする前に、その機会を病気で奪われてしまいます。

1887年4月5日、家庭教師となったサリバン先生がヘレンケラーのもとへ来て33日目のことでした。
サリバン先生は、散歩中に井戸へ近寄り、そしてヘレンの手に水を掛け流します。
水に濡れながらずっと「w-a-t-e-r」とヘレンの手のひらに指文字で何度も綴りながら同時に声に出して教え込みました。
するとヘレンは突然、その言葉と物を結びつけて、あらゆるすべての物には名前があるのだということに気づいたといわれています。

この時、ヘレン・ケラーは7歳前後。
この出来事をきっかけに、多くの物や動作の名前を覚え、いわゆるひとりの人間として、サリバン先生とやっと心を通わせる事が出来るようになります。

サリバン先生とは?

アン・サリバン(アニー・サリバン/アン・マンズフィールド・サリヴァン・メイシー)
(Anne Mansfield Sullivan Macy、1866~1936)

1887年、ヘレンの両親は熱心でした。
聴覚障害者の教育研究をしていた科学者アレクサンダー・グラハム・ベル(電話の発明者)を通して、盲学校の校長マイケル・アナグノス先生に手紙を出し、家庭教師の派遣を要請しました。
当時21歳の貧しいアイルランド人移民の娘だった、アニー・サリバンが抜擢されます。

サリバン先生自身も、小さい頃から弱視であったため(視力は手術で回復していた)、自分の経験を活かしてヘレンには「しつけ」「指文字」「言葉」を体現して教えます。
おかげでヘレンは、あきらめていた言語、「話すこと」が出来るまでに成果をあげました。サリバン先生はその後約50年間、ヘレンの良き教師として、その生涯を支えました。

野生児ヘレン・ケラーが、「かんしゃくもち」アンにキスすることを許してくれた日。

1887年3月20日、アン・サリバンは、ヘレンに会ってから十七日後、ホプキンスに宛てた手紙で「ヘレンに奇跡が起こりました。小さな生徒の心に、知性の光が差し込みました」と書きました。

「私の心は今朝喜びに高鳴っています。なんと、奇跡が起こったのです!
・・・・2週間前までは飼い慣らされていない小さな生き物であった者が、一人の穏和な子供に変身しているのです。
ヘレンは、落ち着いた幸せそうな表情で、鉤針を使ってスコットランド産の赤い毛糸で鎖編みをしながら、こうして手紙を書いている私の傍らに座っています。彼女は今週編み物を習い覚え、その成果をとても誇りにしています。」
さらに手紙は次のように続きます。
「今彼女は、私がキスするのをすなおに受け入れています。そして、とくに穏やかな気分の時には、1、2分間私の膝に座ろうとします。・・・・大きな一歩、重要な一歩が踏み出されたのです。あの小さな無作法者は、従順さについての最初の授業を習い終えました。・・・・いまや、子供の魂の中に芽生え始めた優雅な知性を導き形成していくことが、私のたのもしい仕事になっているのです。」
(ヘレンケラー第2章(2)http://www5c.biglobe.ne.jp/obara/helen/helen22.htm)

サリバン先生は、約50年に渡り、教師・友人としてヘレンを支えました。
素晴らしい能力を発揮し、一人の女性を自立するまで育て上げたのです。
奇跡の人は、サリバン先生だったのですね!

その功績は世界から讃えられました。
フランス政府からは<レジオン・ド=ヌール勲章>を、
アメリカ政府からは、<大統領自由勲章>を、そして日本政府からは<勲一等瑞宝章>などが贈られています。

ヘレン・ケラー財団とは?

ヘレン・ケラー財団とは?

1921年(41歳)、ヘレンの発案で米国盲人援護協会が創設。
協会への寄付は米国中から集まり、100万ドル以上になったといわれています。

ヘレンの大きな功績の一つ、点字。
それまで欧州式、米国式など5種類に分かれていた点字を、一種類に統合することに尽力しました。
1932年(52歳)の時、ルイ・ブライユ氏により、点字が国際標準化されました。

日本ヘレンケラー財団は、1948年のヘレン・ケラー女史来日(毎日新聞社提唱)を記念して、視覚障害・知的障害など心身障害者の福祉増進と自立支援を目的とする事業を行うため、1950年(昭和25年5月)に設立認可された社会福祉法人です。

こうしたヘレンケラー財団は、世界に拠点を置き点在しています。

 

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