ネルソンマンデラ大統領の名言は?ノーベル賞や生涯は?スピーチやラグビー等

Pocket

南アフリカで人種差別とも闘い投獄されながらも釈放後に初めて民主的に選ばれた大統領で、ノーベル平和賞(1993年)の受賞者でもあった。マンデラ氏の功績を追ってみます。

ネルソンマンデラ大統領とは?

人種差別の撤廃を成し、白人と黒人の平和の懸け橋となった偉人(ヒーロー)

ネルソン・マンデラ(1918年~2013年)Nelson Rolihlahla Mandela
南アフリカ共和国の政治家、弁護士。反アパルトヘイト運動に取り組む。
1952年、弁護士事務所を開業。
1961年、民族の槍という軍事組織を作り司令官として活動するも犯罪者・主犯格とされる。
1962年8月、逮捕「終身刑」を言い渡される。
1979年、インドの「ネルー賞」を受賞。
1988年、欧州議会の「サハロフ賞」を受賞。←海外からは当時の活動ぶりに対し注目度が高まる。
1989年、当時の南アフリカ大統領フレデリック・デクラークと会談。
1990年、釈放。
1994年に南アフリカ初の全人種参加選挙が実施され、ネルソンは大統領に就任、民族和解・協調を呼びかける。
白人・黒人との対立や格差の是正、黒人間の対立の解消、経済不況からの回復として復興開発計画などを実施した。
1999年、政治の世界から引退。
(1994~1999年の任期1期のみで大統領から身を引く)
2013年12月5日、ヨハネスバーグの自宅で95年の生涯を閉じた。

 

スポンサードリンク

アパルトヘイトとして知られている南アフリカの人種隔離政策に反対する闘争活動のために、27年間を刑務所で過ごした。
のちにユネスコ親善大使に就任されています。

アパルトヘイトとは、南アフリカ共和国が、国の政策として行っていた、人種差別政策で、白人と黒人それぞれに土地を区分した。
環境の良い場所に住んでいた黒人は、不便な土地に移住までさせた。
レストランや病院など公共施設でも、白人専用の施設として分離させました。
白人と黒人のカップルはもちろん結婚をも禁止しました。
白人だけを優遇する国主導の差別が平然と許されていたのです。
当然世界的にもこの政策は反対され、国連主導のもと、日本・アメリカ・EC(ヨーロッパ共同体・EUの前身)からは、経済制裁が行われました。
そうしたアパルトヘイトそのものを撤廃した20世紀を代表する偉人と言われる方が、ネルソン・マンデラ元大統領なのです。

 

スピーチ、言葉、名言は?

以下は1964年(投獄中)のリヴォニア反逆罪裁判の法廷でマンデラ氏が理念を貫いたとある演説からのスピーチの引用です。

私は白人による支配に反対し、そして黒人による支配にも反対してきました。
全ての人々が協調して平等な機会の下で共に暮らしてく、民主的で自由な社会という理想を大切にしています。
この理想に人生を捧げて実現を目指すことができれば最も望ましいですが、必要であれば、この理想のために死をもいといません。
(引用元:https://jp.globalvoices.org/2013/12/25/26603/)

・成功するために大切なのは、どこから始めるのかではなく、どれだけ高く目標を定めるかである。
・教育とは、世界を変えるために用いることができる、最も強力な武器である。

「黒人も白人も胸を張って歩ける、人間の尊厳が守られる社会を築こう。われわれが目指すのは平和な“虹の国”だ。」
(http://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3443/1.html)

 

映画化もしてる?

1962年(45歳)に反アパルトヘイト運動を主導したことで終身刑で逮捕され死ぬまで牢屋の中。。。
しかもアパルトヘイトで、差別されている黒人だけが入る離島の牢獄です。
かなり劣悪な環境に置かれた場所でした。
しかし、マンデラ氏は、その最低な環境のな中でも希望を失わず、
積極的に自分の敵である白人の看守達と仲良くなろうと努力しました・・・
獄中でマンデラ氏は、白人の話す言語・アフリカーンス語を勉強、そして白人看守達と会話を交わすようになっていきました。
巧みで柔和な話術と笑顔でマンデラ氏は刑務所内で敵だった白人看守を味方に変え、71歳の時に釈放されました。

マンデラ氏のこの数奇な運命のお話しは、白人看守との友情の物語として、映画化され広く有名になりました。
関連する映画は以下3作品です。

2007年公開映画「マンデラの名もなき看守 (Goodbye Bafana)」
内容:マンデラ氏の獄中生活に焦点が描かれている作品。

2009年公開映画「インビクタス 負けざる者たち (Invictus)」
内容:南アフリカの大統領となったネルソン・マンデラ氏が、低迷期の南アフリカのラグビーチームをコンサルすることによって国民を導く映画。

2014年公開映画「マンデラ 自由への長い道」
内容:弁護士時代からANC(アフリカ民族会議)に加入し反アパルトヘイト運動で27年間の獄中生活と釈放、そして大統領になるまでの半生が描かれている。
→関連本:自由への長い道(ネルソン・マンデラ自伝)

 

本も出版されている?

マンデラ氏に関する本は自伝、小説、歴史、インタビュー本、名言集と幅広い分野で発行されてますが、ここでは自伝的なもの2作品を紹介します。

「自由への長い道(上/下)」 ネルソン・マンデラ自伝 単行本 – 1996/6/1
(原題: Mandela: Long Walk to Freedom)
ネルソン マンデラ (著),‎ Nelson Mandela (原著),‎ 東江 一紀 (翻訳)
彼の生まれてからこれまでの歩みが詳細に記述された自伝。平凡な人生を歩んでいた青年の前に、アパルトヘイトという巨大な敵が立ちはだかっていた—。誕生から勉学、弁護士となり、さらに政治的な運動に傾倒していった結果の逮捕、裁判、27年間という長い獄中での生活環境など。白人政府との交渉から釈放までと、民主的な選挙で多数の黒人衆派による政権を獲得するまでの半生。
世界22か国で出版、英米で大反響のベストセラー。

 

「ネルソン・マンデラ 私自身との対話」 単行本 – 2012/1/24
ネルソン マンデラ (著),‎ 長田 雅子 (翻訳),バラク・オバマ(序文)
「偉人」と呼ばれ世界の賞賛を浴びてきたマンデラ。だが実際の彼は、小さな幸せに憧れ、時には悩み、絶望し、怒りに身を震わせる一人の人間であった。その真実の姿が初めて、本人によって明かされる。
ネルソン・マンデラ氏の日記、手紙、インタビュー、未発表の自伝の原稿等々から構成されています。

 

手話通訳問題?内容は?

12月5日に95年の生涯を閉じたマンデラ氏の世界的な追悼式で事件は起こりました。

2013年12月10日、南アフリカ最大都市ヨハネスブルクのサッカー競技場で行われたネルソン・マンデラ氏の追悼式典で、全世界に向けて中継配信された放送中に注目を集めた手話通訳に対する疑義問題です。
そこで政府が用意した各国要人の手話通訳をした人が「偽物でわ?」と物議を呼びました。
無意味でデタラメな通訳をしたと指摘されたタムサンカ・ヤンキーさんです。

一応手話としては成立し通じるものの、その内容は故人や追悼式には全く関連性の無い言葉だとされていることが問題にされました。
第三者によって訳された文章の本当の意味は別にしても、彼が通訳したと言われるその例を以下に数点載せます。

・I know these speeches are dull, but never mind, apparently Kiss are coming on in a minute.
(このスピーチは退屈だ、でも心配すんな、もうすぐキスがやってくるぜ。
・Come on, let’s get this party started! Big fish, little fish, cardboard box!
(さあ、パーティを始めようぜ!大きな魚、小さな魚、段ボール箱!)
・I’m just a random chancer! Shhh! Don’t let on!
(俺は単なるデタラメで得するなら何でもやるんだ。シーッ!バラしちゃダメだぜ!)

およそ追悼の言葉とは思えない訳や言葉の数々が並べられて指摘されたようですね。

そして当の男性からの説明がまたまた世間を賑わせます。

~東京新聞~南ア追悼式 手話男性「幻覚見えた」- 国際(TOKYO Web)
~世界の雑記帳~ マンデラ氏追悼式の「でたらめ」手話通訳者が謝罪、持病発症か – 毎日新聞

マンデラ氏の追悼式で手話通訳を行った男性は、自身の手話がデタラメだと追及された事に対して、
「会場に突然、天使が舞い降りるのが見え、難しい状態になった」
「幻覚が見えた。パニックにならないよう自分をコントロールしようとしたが、適切な通訳ができなくなった」
などと説明しているということで、何らかの持病を持っていたのは確かなのかもしれません。

翻訳の内容がどうであれ、なぜこの男性が公人たちの通訳という重責を引き受けたのか、真相は不明でしかもこの男性を手配した会社社長は当時の2013年時点では失踪中とのことで結ばれています(その後の詳細は調べられませんでした)。
ちなみに南アフリカの国営放送(SABC)では独自の手話通訳者を別画面で手配し用意しており、政府側とは別に手話を放送していたそうです。

 

ラグビー殿堂入り?

前述の映画「インビクタス」でもありましたが、代表チーム「スプリングボックス」の応援者でもありました。
投獄中にラグビーの知識を身につけたそうです。

見回りに来る刑務所の白人少佐が熱烈なラグビーファンだと知り、ラグビーを猛勉強して、白人少佐らと会話を交せるようにまでなり、相手に敬意を示したり、相手の心を読み解いていったのでしょう。
黒人と白人の融和を成し遂げたい。その秘策として、マンデラ氏はスポーツの力を信じ委ねるのです。
当時アパルトヘイトの強化に伴い、国内外からスポーツボイコット運動による圧力もありました。

1991年にアパルトヘイト関連法が撤廃され、32年ぶりに南アフリカは五輪に復帰。
しかしながら南アの白人男性が愛したラグビーに対して、アパルトヘイトの象徴となっていたラグビーをほとんどの黒人は嫌っていたそうです。

マンデラ氏は大統領任期2年目の92年8月、11年ぶりに代表チームのスプリングボックスを世界へと復活させます。

実はアフリカ人にとってラグビーは宗教と同様な存在でもあったのです。
そのラグビーという手段を借り、希望ある新国家の建設を目指す事を目標にしました。

1995年、ラグビー界の歴史が大きく動く年にもなりました。ラグビーワールドカップを自国南アフリカで開催させたのです。
人種間に大きな溝があった国に、『ワン・チーム、ワン・カントリー』のスローガンのもと。
マンデラ大統領は、前日チーム激励の際にもらった緑のキャップをかぶり開会式に登場。

結果、6月24日、ニュージーランド代表との激闘の末、優勝旗をもたらしました。

2015年10月4日。ラグビーの国際統括団体ワールドラグビーは、南アフリカの故ネルソン・マンデラ元大統領の殿堂入りを発表しました。

「1995年のラグビーW杯を開催した南アフリカが、スポーツの力によって一つになったのは、マンデラ氏の功績が大きい」

「優勝したスプリングボクスを情熱的に、また先頭に立ってサポートしたことで、マンデラ氏は自国の歴史のために人々の姿勢や心構えを変え、価値観に訴えかけた。その過程はわれわれにとっても素晴らしい模範になった」

10年も掛かりましたが、それだけ世界中を魅了した功績の証ですね。

 

マンデラ大統領の生涯は?

平和の懸け橋となった偉人(ヒーロー)

アメリカの前大統領オバマ氏が「20世紀最後の偉大な解放者で、歴史の偉人」と言わしめる人物。
南アフリカでは、マンデラ氏を「神」と崇める方々もいらっしゃいます。

アパルトヘイト撤廃に努める中、身体を壊しながらも27年間の獄中生活を虐げられたにもかかわらず、白人に対して決して復讐しようとは考えず、ただひたすら白人と黒人(非白人)の和解と協調に人生を捧げ尽くしました。

手に入れた権力にいつまでもしがみつくことなく、きっぱりと1期で政界を引退する前年、
「私には、人生において悔やまれることがひとつある。
それは、一度もヘビー級ボクシングの世界チャンピオンになれなかったことだ」
マンデラ氏はこの言葉を残したそうです。

アマチュアのボクサーだった若い頃の野心家は、世界を変える偉大な解放者となり、歴史に名を刻むまでに偉大なチャンピオンとなったといえるでしょう。

政界引退後は、
ネルソン・マンデラ財団
ネルソン・マンデラ子供基金
マンデラ・ローズ財団
を設立し、エイズや病気に苦しむ人たち、弱者や貧困層、未来ある子供たちらを支援されていました。
そして2013年12月5日、マンデラ元大統領はその生涯を閉じました。
95歳でした。

マンデラ氏の追悼式典では、長年にわたり確執があったアメリカとキューバが握手をするという歴史的なことも起きました。
(当時の米大統領オバマ氏とカストロ首相による和解)

 

生まれながらにして肌の色や出身や宗教を理由に他人を憎む人は誰もいない。
憎しみは後から学ぶものであり、もし憎しみを学ぶことができるなら、愛することも教えられるはずだ。
愛はその反対の感情よりも、人間の心にとって自然になじむものだから。
(ネルソン・マンデラ氏の言葉より~引用元:https://www.cnn.co.jp/world/35041033.html)---。

 

スポンサードリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です